去年の上着の袖を引っぱった母を、わたしは見ていた

冬物の上着を着た子どもの袖を母親がそっと引っぱって長さを確認している玄関の様子を写したアイキャッチ画像

朝、玄関の前で、母が冬物の箱を開けていた。
少しだけほこりの匂いがした。
箱の中には、去年着ていた上着やマフラーが入っていた。

「寒くなってきたから、これ着てみて」

母はそう言って、紺色の上着をわたしに渡した。
去年の冬、何度も着ていた上着だった。
ポケットの中に、折れた葉っぱが一枚入っていた。

わたしは袖を通した。
前より少しきつい気がした。
ファスナーは閉まったけれど、肩のあたりが少し引っぱられた。

母は何も言わず、わたしの前にしゃがんだ。
そして、袖の先をそっと引っぱった。
右の袖。
左の袖。

指先が、思っていたより出ていた。

「まだ、着られるかな」

母は小さな声で言った。
わたしに聞いたのか、自分に言ったのか分からなかった。

わたしは「うん」と言った。
本当は、少し短いと思った。
でも、短いと言ったら、新しいのを買わなきゃいけなくなる気がした。

母はもう一度、袖を見た。
それから、わたしの背中のあたりを軽くなでた。
上着のすそも、前より少し上に来ていた。

「大きくなったね」

母は笑った。
その言葉は、うれしい言葉のはずだった。
でも、笑ったあとで、母の目が少しだけ別のところを見た。

玄関の棚の上には、学校からのプリントが置いてあった。
その横に、家計のメモのような紙があった。
ペンで何かが丸で囲まれていた。

昨日、母がその紙を見ながらため息をついていたのを、わたしは知っていた。
見ないふりをしたけれど、聞こえていた。
冷蔵庫を開ける音のあとに、小さく息を吐く音がした。

「新しいの、今度見に行こうか」

母が言った。

わたしはすぐに返事ができなかった。
行きたいと思った。
もう少し袖の長い上着がほしいと思った。

でも、言えなかった。

「これで大丈夫」

そう言った。
声が、少し早く出た。
自分でも、急いで言ったのが分かった。

母はわたしを見た。
それから、少しだけ笑った。

「そっか」

その笑い方が、なんだかいつもと違った。
ほっとしたようにも見えたし、申し訳なさそうにも見えた。

わたしはランドセルを背負った。
上着の袖から出た手首が、朝の空気で少し冷たかった。
でも、そのまま靴を履いた。

「寒かったら言ってね」

母が言った。

「うん」

わたしはそう返事をした。
本当は、もう少しだけ寒かった。
でも、振り返らなかった。

玄関のドアを開けると、外の空気がすっと入ってきた。
袖の短いところに、冷たい風が当たった。
指先を少しだけ上着の中に引っ込めた。

後ろで、母が冬物の箱を閉じる音がした。

その音が、思っていたより小さく聞こえた。

あとがき

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

子どもの服って、ある日急に小さくなります。
成長はうれしい。
でも、上着、靴、体操着、学用品と重なると、家計の中では小さくない出費になります。

子どもも、親の表情を思っている以上に見ていることがあります。
「大丈夫」と言わせてしまう前に、親の方も少しだけ準備しておけたら気持ちが楽になります。

ぼくも、教育費は塾代や進学費だけではなく、こういう毎日の買い替えも含めて見ておくものだと思っています。
完璧に準備しなくても大丈夫です。
まずは、子どもにかかる季節ごとの出費を少し分けて見てみるだけでも、安心しやすくなります。

同じように、子どもにかかるお金が気になっている方はこちらの扉からどうぞ。

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