夕方のスーパーは、少しだけ混んでいた。
レジの方から、ピッ、ピッ、という音が続いていた。
冷蔵棚の前には、仕事帰りの人が数人立っていた。
わたしは買い物カゴを腕にかけたまま、ヨーグルトの棚を見ていた。
いつも買っているものが、いつもの場所に並んでいた。
白いパックのふたに、見慣れたロゴがあった。
「これ、買う?」
横にいた息子が聞いた。
好きなヨーグルトだった。
朝ごはんのあとに食べることもあるし、学校から帰ってきて食べることもある。
「うん」
そう言って、わたしは一度それをカゴに入れた。
カゴの中には、牛乳と卵と豆腐が入っていた。
食パン、もやし、冷凍うどんも入っていた。
特別なものは、何も入っていなかった。
それなのに、カゴが少し重く見えた。
重いのは中身ではなく、頭の中に浮かんだ金額だった。
先週のレシート。
昨日届いた電気代のお知らせ。
来月の学校集金。
月末に引き落とされるスマホ代。
わたしはカゴの中のヨーグルトを見た。
たった一つだった。
高級なものでもない。
子どもが好きな、いつものヨーグルトだった。
でも、手が止まった。
息子は別の棚を見ていた。
小さなゼリーを指で数えていた。
その横顔を見て、わたしは何も言えなくなった。
買えないわけじゃない。
払えないわけでもない。
ただ、カゴに入れたものを全部レジに持っていくのが、少し怖かった。
わたしはヨーグルトを手に取った。
そして、棚に戻した。
音はほとんどしなかった。
パックが棚に触れて、小さくすべっただけだった。
「やめたの?」
息子が聞いた。
わたしは笑った。
ちゃんと笑えたかは分からなかった。
「今日は、まだ家にあるから」
嘘ではなかった。
でも、本当でもなかった。
冷蔵庫に少し残っているのは確かだった。
息子は「ふーん」と言って、また棚の方を見た。
それ以上、何も聞かなかった。
聞かれなかったことに、少しほっとした。
ほっとした自分が、少し嫌だった。
カゴの中は、さっきより軽くなった。
それなのに、腕にかかる重さは変わらなかった。
レジの方から、またピッ、という音がした。
前の人の会計金額が、遠くの画面に一瞬だけ光った。
わたしはカゴを持ち直した。
ヨーグルトを戻した棚の前を、すぐに離れられなかった。
冷蔵棚の白い光の中で、戻したパックだけが、なぜか少しこちらを見ている気がした。
【あとがき】
読んでいただき、ありがとうございます。
スーパーで何かを棚に戻す瞬間って、思っているより心に残ります。
贅沢をやめたというより、いつもの暮らしの中で少しだけ我慢を選んだ感じがするからです。
ぼくも、家計を見直す前は「何を買うか」ばかり気にしていました。
でも本当は、毎月勝手に出ていく支払いを整える方が、暮らしは軽くなりやすいことがあります。
食費を削る前に、スマホ代や光熱費、使っていない支払いを一度見る。
それだけでも、毎日の買い物の重さが少し変わるかもしれません。
同じように、暮らしの支払いが重く感じている方は、こちらの扉からどうぞ。
