夕飯のあと、娘がランドセルから一枚の紙を出した。
少し折れた、白いプリントだった。
テーブルの上に置かれた瞬間、紙の端がふわっと浮いた。
「これ、友だちが行ってるんだって」
娘は、少しだけ声を弾ませて言った。
テレビでは、誰かの笑い声が流れていた。
キッチンからは、食器を重ねる音が聞こえていた。
わたしはプリントを手に取った。
塾の案内だった。
春期講習、体験授業、少人数クラス。
最初に見たのは、娘の顔だった。
次に見たのは、プリントの真ん中あたりにある料金表だった。
月謝。
教材費。
入会金。
模試代。
文字を追うたびに、頭の中で数字が増えていった。
学校の集金。
習い事の月謝。
上の子の靴。
来月の固定資産税。
どれも、いま急に出てきた話ではなかった。
ずっとそこにあった。
ただ、いつもは見ないようにしていただけだった。
「ねえ、どう思う?」
娘が聞いた。
わたしはプリントを見たまま、すぐに顔を上げられなかった。
行きたいなら行ってみたら。
その一言を言ってあげたいと思った。
思ったのに、口から出なかった。
娘は悪くない。
むしろ、自分からやってみたいと言ったことを、喜ぶべきなのだと思う。
勉強が嫌だと言われるより、ずっといいはずだった。
それなのに、わたしの目はまた料金表に戻っていた。
「体験だけでも、行ってみようかな」
娘が、少し小さな声で言った。
さっきより、声の明るさが弱くなっていた。
たぶん、わたしの顔を見たからだと思う。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「そうだね」
ようやく出た返事は、それだけだった。
いいよ、でもない。
行ってみたら、でもない。
ただの、時間をのばすための返事だった。
娘はプリントをもう一度見た。
それから、ゆっくりうなずいた。
「じゃあ、あとででいい」
その言い方が、妙に大人っぽかった。
本当は今、何か言ってほしかったのかもしれない。
でも、わたしが言葉を探している間に、娘は先に引いてくれた。
食器を洗う音が止まった。
リビングの時計だけが、小さく鳴っていた。
プリントは、まだテーブルの上にあった。
月謝の欄だけが、なぜか少し濃く見えた。
娘の「あとででいい」が、思っていたより長く部屋に残っていた。
【あとがき】
子どもの「やってみたい」に、すぐ返事ができないことがあります。
応援したくないわけじゃない。
むしろ、できるなら全部応援したい。
でも、月謝や教材費や入会金を見た瞬間に、家計のことが頭をよぎる。
その沈黙って、けっこう親の中に残ります。
教育費は、気合いだけで抱えると苦しくなります。
無理に全部を決めなくても大丈夫です。
まずは、子どもの気持ちと家計の流れを分けて見てみるだけでも、少し整理しやすくなります。
同じように、子どもの教育費が気になっている方はこちらの扉からどうぞ。
