夕飯のあと、リビングの電気だけがついていた。
妻はキッチンで水筒を洗っていて、子どもたちはそれぞれの部屋に戻っていた。
テレビの音だけが、少し小さく流れていた。
ぼくはソファに座ったまま、スマホで「老後 生活費」と検索していた。
検索するつもりなんて、最初はなかった。
ただ、ニュースの見出しにその言葉が出てきて、なんとなく指が動いただけだった。
画面には、いくつかの数字が並んでいた。
生活費。
年金。
医療費。
貯金。
足りないかもしれない金額。
その文字を見た瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
誰かに怒られたわけでもない。
請求書が届いたわけでもない。
それなのに、急に部屋の空気が少し冷たくなった気がした。
「どうしたの?」
キッチンから妻の声がした。
ぼくはスマホの画面を見たまま、少し遅れて返事をした。
「いや、ちょっとニュース見てただけ」
嘘ではない。
でも、本当でもなかった。
ぼくが見ていたのはニュースではなく、これから先の暮らしだった。
スマホの画面には、知らない言葉がいくつも並んでいた。
資産形成。
積立。
非課税。
シミュレーション。
どれも大事そうなのに、どれも少し怖かった。
昔のぼくなら、すぐに閉じていたと思う。
いや、正確にはその夜も閉じかけた。
親指が、ホーム画面に戻る位置まで動いていた。
怖いのは、お金がないことだけじゃなかった。
ちゃんと見たら、何かを変えなきゃいけなくなることだった。
今まで見ないふりをしていた自分を、認めることになるのが嫌だった。
子どもの教育費。
住宅ローン。
毎月の固定費。
これから増えるかもしれない出費。
全部を考えると、未来のお金の話は遠い話じゃなかった。
老後。
その言葉が、急に近くに来た。
ぼくはスマホをテーブルに置いた。
画面はまだ光っていた。
でも、そのまま見続けることができなくて、そっと伏せた。
伏せた瞬間、少しだけほっとした。
見えなくなったからだ。
でも、見えなくなっただけで、なくなったわけではなかった。
妻が水を止める音がした。
カチャ、と水筒のフタが置かれる音がした。
その音を聞きながら、ぼくは自分が何から逃げているのか、なんとなく分かっていた。
家族を守りたい。
子どもに迷惑をかけたくない。
妻に「大丈夫」と言いたい。
それなのに、数字を見ることすら怖い。
伏せたスマホの下で、まだ画面が光っている気がした。
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
老後のお金や資産形成は、いきなり始めようとすると怖くなります。
ぼくも、最初は画面を見るだけで閉じたくなりました。
でも、怖いと感じた時点で、もう少しだけ現実に触れています。
無理に始めなくても大丈夫です。
まずは制度を読むだけでも、十分な一歩になります。
同じように将来のお金が気になっている方は、こちらの扉からどうぞ。
