「これ、やってみたい」
子どもがそう言って、ランドセルから一枚のプリントを出した。
夕飯の準備をしている途中だった。
私は片手でフライパンを持ったまま、もう片方の手でその紙を受け取った。
サッカー教室の体験案内だった。
楽しそうな写真。
大きな文字で書かれた「初心者歓迎」。
下の方には、月謝と入会金と、必要な道具のことが書いてあった。
子どもは、私の顔を見ていた。
「友だちも行くんだって」
その声は、少しだけ弾んでいた。
私はすぐに「いいよ」と言えなかった。
でも、「ダメ」とも言えなかった。
フライパンの中で、野菜が少し焦げそうになっていた。
「あ、ちょっと待ってね」
そう言って、私はプリントを冷蔵庫の横に置いた。
子どもは「うん」と言って、リビングに戻っていった。
その後ろ姿が、なんだか少し小さく見えた。
夕飯の間、子どもはその話を何度かした。
「体験だけなら無料なんだって」
「友だち、もう申し込んだって」
「ぼくも行ってみたい」
私はうなずいた。
「そうなんだ」
「楽しそうだね」
「あとで見てみるね」
それくらいしか言えなかった。
本当は、楽しそうだと思った。
やってみたいと言えたことも、うれしかった。
家でゲームばかりしているより、体を動かすのはいいことだと思った。
友だちと一緒に何かを始めるのも、きっと楽しい。
でも、頭のどこかでは別の計算が始まっていた。
月謝。
入会金。
シューズ。
ウェア。
送り迎え。
体験は無料でも、始めたらそれだけでは終わらない。
そんなことを考えている自分が、少し嫌だった。
子どもはただ、やってみたいと言っただけなのに。
私はすぐに、お金のことを考えてしまう。
食後、子どもが宿題を始めたあと、私は冷蔵庫の横からプリントを取った。
もう一度、下の方を見た。
月謝の数字。
入会金の数字。
小さく書かれた「別途、用品代がかかります」の文字。
ため息が出そうになって、飲み込んだ。
別に払えない金額ではないのかもしれない。
でも、簡単に「大丈夫」と言える金額でもなかった。
今月は、車の保険もある。
学校の集金もあった。
週末には靴も買わないといけない。
ひとつひとつは、必要なもの。
でも、重なると急に苦しくなる。
リビングから、子どもの声がした。
「ママ、これ終わったら見て」
「うん、見るよ」
返事をしながら、私はプリントを半分に折った。
捨てたわけじゃない。
でも、すぐに見える場所からは少し遠ざけた。
その動作が、自分でも分かった。
見ないようにした。
子どもの「やりたい」を、すぐに受け止めてあげられないことが苦しかった。
やらせてあげたい。
応援したい。
できることなら、何でも経験させてあげたい。
でも、財布の中身や通帳の残高が、頭の中に浮かんでしまう。
子どもの可能性に、値段がついているみたいで嫌だった。
お風呂のあと、子どもはもう一度聞いてきた。
「さっきのやつ、行っていい?」
私はタオルで髪を拭きながら、少しだけ笑った。
「パパとも相談してみるね」
子どもは「そっか」と言った。
それ以上、何も言わなかった。
その「そっか」が、少し刺さった。
期待していた顔が、少しだけ引っ込む感じ。
がっかりしたわけではないのかもしれない。
でも私は、見てしまった気がした。
夜、子どもが寝たあと、テーブルの上にプリントを広げた。
白い紙の上に、楽しそうな子どもたちの写真が並んでいた。
みんな笑っている。
ボールを追いかけている。
その中に、自分の子どもがいるところを少し想像した。
似合うだろうなと思った。
走るの、好きだもんな。
友だちと一緒なら、きっと楽しむだろうな。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっとなった。
やらせてあげたい気持ちと、
すぐにうなずけない現実が、
同じテーブルの上に並んでいた。
プリントを折りたたんで、テーブルの端に置いた。
明日、もう一度考えよう。
そう思った。
でも本当は、明日になってもすぐに答えが出ないことを、私はもう分かっていた。
部屋の電気を消す前に、もう一度プリントを見た。
「やってみたい」
子どもの声が、まだ耳の奥に残っていた。
その声に、すぐ「いいよ」と言えなかった自分だけが、夜の中に残っていた。
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
子どもの「やってみたい」って、できることなら全部応援したいですよね。
でも、現実には月謝も、道具代も、送り迎えもあります。
子どもの可能性を削りたいわけじゃないのに、家計のことが頭をよぎってしまう。
ぼくも昔は、そのたびに少し後ろめたい気持ちになっていました。
子どもを責めたいわけじゃない。
でも、何でも簡単に「いいよ」と言えるほど、余裕があるわけでもない。
だからこそ、教育費だけを見て苦しくなる前に、家計全体の流れを一度見直してみることも大切かもしれません。
